北国の人にとっては雪は珍しくもないだろうが、南関東の人間にとって雪は大イヴェントだ。大人になってからも、やはり雪はどこか心浮き立つ、空からの美しい贈り物だ。これは夜中に撮った雪の写真。
新国立劇場「ボエーム」は1月19日初日に行った。つくづくこのオペラが傑作だと思うのは、接するたびに、違う面を必ずと言っていいほど発見させてくれる曲だから。全く飽きるということがない。ますます好きになっていく一方だ。プッチーニの世界は本当に深い。
(※以下、舞台についてのネタバレがあるのでこれから観る方はご注意ください)
粟国淳の演出によるこのプロダクションは、これまで不思議なことにずっと見逃してきた舞台だったが、とても好印象を持った。おそらくすべての「ボエーム」の演出は、ゼッフィレッリのあの豪華な舞台のあとで何ができるか、ということを問われると思う。そこにはもちろん予算など上演上の現実的問題もある。粟国演出はそのことに対する最良の答えを出しているのではないだろうか。美しさ、豪華さ、詩的感興のみならず、さまざまな役柄に対する深い考察を示すということにおいても。
たとえば第1幕で、ベノアが家賃の催促にやってくるときに、反対側の扉から若い男がやってきて先にノックをする。あれはあのアパートの別の居住者が、「大家が来るぞ」ということを先に知らせるために警告してくれたのだろうか? 芸の細かい面白い演出だ。
瀕死のミミの横で、ロドルフォがポケットに手を突っ込んであらぬ方を見ていたのはなぜだろう。パク・ジミンの即興的な動きなのか粟国演出なのかわからないが、ロドルフォがさほど事態を深刻にとらえていないこと、一種のナルシシズムにロドルフォが陥っていたことへの洞察だとしたら面白い。
マルチェッロのアリス・アルギリスはなかなかいい声だ。今度はフィガロを聴いてみたい。ショナールの萩原潤もいい存在感だと思った。
ヴェロニカ・カンジェミのミミは、私にとっては理想的だった。あの声の、歌の、素晴らしさは「つや消し」の魅力である。ミミは決してつややかに派手に歌い上げてはいけない。キャクラター的に考えても、そんなに声の大きな女ではない。だが、控えめな彼女の心の奥底にある何かかけがえのない「詩」の輝きを表現しなければいけない。それをカンジェミは全うできていたと思う。
1月23日月曜日は、表参道CAYに松田美緒の「日本のうた」を聴きに行った。
第二部の後半しか聞けなかったのだが、ライヴで聴ける彼女の声の響きに、心から酔った。そこには、レコーディングで聴く以上に、一種の湿り気のような、南風のような感じがあって、その響きを聴くと、胸の底が疼くような気持ちになる。
今回彼女は福島や秋田の民謡や子守歌、沖縄民謡、さらには隠れキリシタンの歌や武満徹を同一プログラムにのせて歌った。それは彼女が、あえていうなら「調査」「研究」したうえで、それを愛し理解し、血肉化し自分のものとしていったものなのだ。そこが素晴らしい。自分の限られた故郷の歌だけを歌い続けるよりも、他人の土地の中に真の故郷を見出していくことにこそ、私は共感する。
先ほど(1月24日)聴いてきたのは、サントリーホールでの都響定期。
ホール前のカラヤン広場では、ライトアップされた小さな木々の周りに積もった雪があしらわれていて、すてきな場所になっていた。
野平一郎の「オーケストラのためのトリプティーク」「チェロとオーケストラのための響きの連鎖」(作曲者自身の指揮)、そしてブーレーズ「エクラ/ミュルティブル」(杉山洋一の指揮)で。どちらもとても楽しめた。
野平作品は、響きの色彩感と厚みに、やはりメシアンに通じるものを感じたが、そこに山とか森とか混沌とか、一種むき出しの野性味が、緻密な計算のもとに加わっていたのが面白かった。いい曲だと思った。
特に2曲目でのソロの堤剛は素晴らしかった。そもそも私がこの人のチェロを初めて聴いたのはいまから30年位前である。いまや栄誉に包まれているにも関わらず、こうした新しく難しい作品にリスクを恐れず挑戦し、献身し、しかもこれほど高い技術と解釈で演奏し続ける、というのは本当にすごい。
ブーレーズの「エクラ/ミュルティブル」(2002年最新改訂版・日本初演)に接することができたのも大きな喜び。
演奏も生き生きとした素晴らしいものだった。一瞬たりとも退屈しなかった。これはヴェーベルンの音楽の延長線上にあるような作品。まさにクラシックの本流である。両者がどう共通しているかというと、切り詰められ、緊迫し、点描的な音であること、徹底して知的に磨き上げられているということだろうか。
だが、どんなに知的な作品だろうが、鑑賞者までが知的でなければ理解できないというわけでもあるまい。音楽である以上、それはブーレーズの作品であろうと、最終的には感覚で味わうものである。
ダイヤモンドを隙のない多面体として研磨する職人はさぞかし大変なことと思うが、その輝きを愉しむ人は、それが何面体なのか、炭素の分子構造はどうなっているかなど知らなくともよいのと同じである(知ればさらに悦びは増すだろうけれど)。
私はブーレーズの作品に(そして彼の指揮についても)いつも感じるのは、徹底的に知的で硬質であるということがもたらす、淡いエロスの感触である。
それは、叡智と洗練の限りを尽くして設計され作られた、人の手による精緻な創作物ならではの輝きなのだと思う。その音の輝きは、最高の宝飾品(そこには余計な感情の入る余地はない)だけが放つ官能の領域にある。ブーレーズの音楽が伝えること、そのもう一つは明晰ということの素晴らしさだ。よく書かれたフランス語がそうであるように、その音が指し示そうとする方向は常に明確で、狙いにあいまいさがない。そこがいい。
明晰であること。覚醒させてくれること。いまの時代、もっとも大切なことでもある。
来日公演(すみだトリフォニーホール)詳細は