3月11日のあの地震があったとき、私は自宅にいました。ちょうど階段を上がろうとしていたところだったのですが、一歩踏み出した姿勢のまま、注意深く揺れが終わるのを待っていました。不思議に全くと言っていいほど恐怖は感じませんでした。それは高層ビルとは大きな違いだったかもしれません。ただ、小さな家全体が揺れに揺れて、窓ガラスが割れるのではと危惧するほどではありました。CDと資料の山は大崩壊しましたが、食器類など一切割れなかったのは幸いでした。
急いでテレビをつけて、やがて禍々しい津波が東北の美しい平和な景色を飲み込んでいくショッキングな映像を目にしたとき、実に嫌な感覚に襲われました。とりかえしのつかない災厄がこの国を飲み込んでいく象徴のように思ったのです。やがて福島原発が非常事態にあることがわかってきました。まるで悪夢を見ているみたいに。多くの人が、平静を装いながらも、不安に蓋をして、何とか秩序を保とうと自分に言い聞かせている。そんな日々が続いています。
楽しみにしていた多くのコンサートが中止になりました。私自身も解説を書かせていただいていたオペラシティの「ブエノスアイレスのマリア」が中止になったのはとりわけショックでした。準備を進めていた演奏家や関係者はなおさらでしょう。それだけならまだしも、水や空気や食べ物に不安がある中で、果たして今後音楽の世界はどうなってしまうのか。
揺れのあった翌日は土日レギュラーのOTTAVAの生放送でした。交通機関が大混乱の中、いつもなら1時間程度で着くところを、ぎゅうぎゅう詰めの電車で4時間以上かけてようやくTBSにたどりつきました。放送開始からすでに2時間が経過し、大遅刻でした。幸い宿泊していたスタッフの助けもあったので放送そのものは無事でしたが、局内も異常な雰囲気でした。ビルも相当揺れたらしく、みな口々に恐怖を語っていました。廊下は漆喰が剥がれ落ち、階段の壁にはひびが入っていました。もう絶対に遅刻はしたくなかったので、土曜日の夜は泊まりました。翌週の土曜日も局に泊まりました。
そんな中、果たしてクラシック音楽の放送を通常通りすることにどんな意味があるのか、という思いも頭をかすめましたが、実際には普段よりもはるかに多くの人々が放送を聴いていたらしいことがあとでデータとして判明しました。それは心強い結果でした。
放送中、ふと思った言葉をツイッターではこんなことをつぶやきました。
「音楽はインフラです。人間が人間らしくあるための」。
いま、多くの人が精神的に緊張した状態にあると思います。日本全体がそうかもしれません。
そうした中、音楽には何ができるのでしょうか。ずっと自問しています。
音楽を聴いても、空腹は満たされません。
喉の渇きは癒されません。
負傷者の怪我を直すことはできません。
寒さをしのぐこともできません。
まったく無力です。
震災以来、私がずっと思い出していたのは、ベルリン・フィルの名コンサートマスターだったトーマス・ブランディスから、昨年仙台(!)国際音楽コンクールの取材のときに聞いた昔のドイツの話です。
ブランディスは戦時中ヴァイオリンを習い始めたのですが、故郷のハンブルクは空襲で焼かれ、物資が不足した頃は、靴もないくらいで、本当に飢餓状態だったそうです。
それでもブランディスの両親(父は医者、母はユダヤ人)は、疎開先の息子たちに音楽を習わせることをやめなかった。ヴァイオリンを習うために列車(超満員で「足がはみ出る」くらい)に乗って遠くの先生のところまで通ったそうですが、その列車に爆弾が落ちて、歩いて先生のところまで裸足で向かったこともあると言っていました。
そんな極限状況にあっても、ドイツ人は音楽を捨てなかった。次の世代に音楽を伝えることをやめなかった。
私たち日本人にとっても、すでに音楽はそのようなものであると思います。原発が炉心溶融を起こそうが、放射能が広がろうが、私たちが生きようとする意志を捨てない限り、そして次の世代によき未来を託したいという気持ちがある限り、音楽は必要とされ、生き続けると思います。むしろ、音楽はその輝かしい真価をますます発揮するに違いありません。
そういう意味で、音楽の将来を私はあまり悲観しないことにしました。