連休が終わって2週間も経っていないというのに、何だかすっかり記憶の彼方になってしまいそうなラ・フォル・ジュルネですが、遅ればせながら、思い出しつつ、自分用のまとめ。私が足を運んだのは東京国際フォーラムでの以下の公演。それぞれ寸評も付けます。
5月2日
東日本大震災復興支援スペシャル・コンサート~ホールC
都響の演奏は、震災後日本のオーケストラの音楽の質までが変貌したことを如実に感じさせるものでした。小泉和裕の指揮は久しぶりに見ましたが、腕の下ろし方がカラヤンに似ているような…。ヴォーチェス8の演奏はここで初めて耳にしましたが、その爽やかなハーモニーは鮮烈な印象でした。ここでルネ・マルタンは挨拶で「音楽は困難な、打ちのめされたときにこそ、力になってくれるものです」と言っていました。この言葉ほど、音楽がいまあることの意味を集約した言葉はない。こういう強い言葉を語ることのできる人物こそ、真のプロデューサーだと思いました。
5月3日
フローラン・ボファール(ピアノ)リサイタル~G409
リストの「悲しみのゴンドラ」は、名前の美しさの割には、舟歌的なところは皆無。暗く不気味な曲であり、これまではどうにも捉え難い印象でした。しかしボファールの演奏はリストという作曲家がどれほどこの作品に深い内面的なドラマを持ちこんでいたかをえぐり出すもので、暗く濁った水面に潜む不吉な幻影を見つめるかのよう。リストの無調的な作品の本質を突いていると思いました。続くシェーンベルク「3つのピアノ曲」op.11、そしてブラームスの6つのピアノ小品op.118にも、強い感銘を受けました。ペダルを控え、音楽の核心だけを的確につかみだすような、知的でコントロールの行き届いた、それゆえに聴き手の側が自然と情感に満たされていくような、とてもいい演奏でした。
シャニ・ディリュカ(ピアノ)リサイタル~G402
このピアニストも素晴らしい。ボファールとは対照的に、情念型。思いのたけをぶつけ、全身全霊で弾く。けれども、どこかでコントロールがちゃんと働いている。そのバランスが絶妙。インタヴューで彼女はリストには百の感情があると言っていたけれど、そういう万華鏡のようなリスト。彼女の演奏にかかると、天の高みから谷底の絶望まで、神への祈りから悪魔の呪いまで、リストの一つの曲に盛り込まれている。「エステ荘の噴水」「オーベルマンの谷」は、録音のみならず、あのような優れた実演でこそ面白く体験できるものなのかもしれません。
庄司紗矢香(ヴァイオリン)、シャニ・ディリュカ(ピアノ)~よみうりホール
庄司紗矢香のブラームスのソナタは比較的最近ミューザ川崎で第3番を聴いて強い感銘を受けたばかりですが、あまり日をおかずして1番を聴けるとは幸いでした。演奏の印象を一言でいうと、ブラームスに関する限り庄司紗矢香は「ヴァイオリンのチェリビダッケ」だと言いたいですね。あれほど濃厚に、じっくりと、ゆったりと、心ゆくまでブラームスを味わいつくすことのできる演奏がありうるものかと思いました。「雨の歌」という作品に秘められている和声とメロディの息の長さ、豊かさを、あたかも果汁たっぷりな果実にかぶりつくように、むさぼるような思いで堪能しました。
5月4日
竹澤恭子(ヴァイオリン)、加藤洋之(ピアノ)~ホールC
翌朝はブラームスの2番と3番のソナタを、世界の竹澤恭子のヴァイオリンでスタートという贅沢さ。けれども、何かが物足りない。竹澤さんは見事なのだけれど、おそらくピアノがヴァイオリンに遠慮しすぎていたのではないかと…。ピアノが常に一歩下がってプリマドンナの伴奏の域にとどまっていては欲求不満になります。歌曲ならそれでもOKですが、やはりブラームスのソナタではピアノとヴァイオリンは対等に会話をした方がいい。そういう意味では、前夜の庄司紗矢香のブラームス、実はシャニ・ディリュカのピアノも大きな役割を果たしていたと気が付きました。
エマニュエル・シュトロッセ(ピアノ)~G409
オール・ブラームス。2つのラプソディ、主題と変奏、小品集op.118。主題と変奏が最も聴かせる内容でした。やや疲れているように感じられたのは気のせいでしょうか。
広瀬悦子(ピアノ)~G409
オール・ブラームス。ヘンデルの主題による変奏曲のみ聴きました。華麗な技巧、落ちついた変奏曲全体の設計の見通しの良さ。とても満足。ブラームスもまた、華麗なテクニシャンの面を持っていたということを思い出しました。
ヴォーチェス8~よみうりホール
私のいた場所はさほど響く場所ではなかったのですが、それだけに声のアンサンブルが裸になって、面白く聴くことができました。ブラームス、レーガー、ブルックナーの宗教的な合唱曲ばかりという渋いブログラムであるにも関わらず、とても親しみやすく、誰にでも楽しめる音楽に仕上げるというのは、並大抵のことではありません。それは彼らの明るいキャラクターとコミュニケーション能力だけではない。少人数のみずみずしく若い声のヴォーカル・アンサンブルへと、重厚なドイツの合唱作品を還元することのできる、彼らの音楽的能力の高さに起因するのだと思います。
小曽根真(ピアノ)~展示ホール
最初の一音で涙が出ました。たとえPAを通していても、この人のピアノの音はピュアで優しくて、まっすぐ心に届くものがあります。ブラームスを使った即興も披露しましたが、小曽根さんという人の人間性の暖かさ、さわやかさ、少しも権威的でないところ、自由さ、そういったものが、すべて音に出ていると思いました。ジャズかクラシックか、ということなどとうに超えている。優れた音楽家はみな人を幸せにする能力が高いのだと思いますが、小曽根さんは飛びぬけてその力がある。最後に「ガンバロー」とこぶしを上げておられましたが、その必要はまったくないと思えるほど、音楽の力で励まされました。
「月に憑かれたピエロ」マリアンヌ・プスール(ソプラノ)他~ホールD7
幸い、手元に光の当たる場所に座ったので、テキストを読みつつ、詩と音楽を味わうことができました。といっても明確なドラマがあるわけではなく、感覚で味わうシュールな怪奇世界の極限。なかなか優れた実演では体験できないシェーンベルクの傑作を、こころゆくまで味わいました。一言で言うと、強い酒を味わうような大人の作品。詩句は極めて魅力的なものです。抜粋するなら、「眼から飲む酒は緑色の波となって」「月から流れ出て」「白いサーベルのような月」が「そぞろ歩きのピエロ」を「無限の闇のなかで夢見る贖罪の死のために」「頸に音をたてて打ちおろされる」。「詩はおおきな十字架だ」「そこで赤い詩人が血を流す」。「不協和音を出すグロテスクな弓」のセレナーデ。「揮発した古い香水」と「甘く狂った突風」。こういう詩的なめくるめく危険な感覚が、そのまま音楽になっている。それを体験することが、いかに鑑賞者の感覚を誘惑し、美の次元を新たに拓くラディカルなものであることか。シェーンベルクの作品の中でもとびきり素敵なこの作品を、詩と音楽だけで生で味わったこのコンサートは、今回の音楽祭の中でもハイライトの一つでした。
テディ・パパヴラミ(ヴァイオリン)、クレール・デゼール(ピアノ)~G409
ブラームスのソナタ2曲、1番と2番。パパヴラミは情に流されない人。自己に厳しく、鍛錬された騎士のように音楽をする。そういう意味で、カルミニョーラをほうふつとさせるものがありました。そういう厳しさもまたブラームスの一面ですが、それでも、詩人というか、豊かな感情がどうしても音楽から溢れ出てくる。デッドな音の空間でしたが、それだけにパパヴラミの非凡な力量が伝わるいいリサイタルでした。
5月5日
ツェムリンスキー弦楽四重奏団~G402
ツェムリンスキーの弦楽四重奏曲第3番を生で聴くというのは、これを逃したらまずチャンスはなかろうと思い、朝イチに選びました。若いこのカルテット、勢いがあって、とても好ましい人たち。その後のドヴォルザークの第13番ト長調op.106ともども感じたのは、何となくブラームスの影が見えるということ。ツェムリンスキーの方が冒険にあふれていて、洒脱なところもある。一方のドヴォルザークはもっとのびやか。このあたりから、今回の「タイタンたち」というテーマの中の最大の存在はやはりブラームスではないかとおぼろげに思えてきました。レーガーにしてもシェーンベルクにしてもツェムリンスキーにしても、マーラーにしてもR・シュトラウスにしても、全部ブラームスから始まっているのではないか。
フランク・ブラレイ(ピアノ)~G409
R・シュトラウスのピアノ曲ばかりというリサイタル。初めに長いブラレイの楽曲説明があってから演奏に移りましたが、ここで思ったのは、先述のように、シュトラウスはブラームスから始まっているということ。ピアノ曲の場合それが如実に出ている。聴きながら、どこがブラームスと違うかということを考えていました。で、わかりました。結論。シュトラウスは、ある楽曲の中で必ずどこかに光沢色を使うということ!
モーション・トリオ~地上広場
少し肌寒くなってきていたので、アコーディオンを弾く彼らの指は大丈夫かななどと余計な心配をしつつ聴いていました。しかし彼らのおかげでどれだけ音楽祭の気分が盛り上がったかわかりません。昨年のあまりにも危険な印象だった彼らの「いい人度」がアップして感じられたのは、日本のこうした状況へのシンパシーのなせるわざだったのでしょうか。もちろん彼らのパフォーマンス、大いに楽しみました。リストだろうがブラームスだろうがショパンだろうが、何だって彼らは自分のものにできる。それだけ強いものを持っているのが、彼らの素晴らしいところです。
トリオ・ヴァンダラー&ファイト・ヘルテンシュテイン(ヴィオラ)~ホールD7
ピアノ四重奏曲を2曲。マーラーの断章と、ブラームスの第1番ト短調。前者の耽美もさることながら、やはりブラームスのト短調は、とてつもない名曲。情熱的で、感情にあふれている。そう、なぜブラームスの音楽がその後の巨人たちにとって重要かというと、そのルーツとしてあふれんばかりの深い感情に満ちた音楽を書いたからではないか。それがすべての源流になっていると思う。
「月に憑かれたピエロ」勅使川原三郎(ダンス)、マリアンヌ・プスール(ソプラノ)、他~ホールC
もう一度聴きたくなったので、再度「月に憑かれたピエロ」へ。勅使川原三郎のダンスから目を離せないので、先ほど詩句に集中しておいて良かった。音楽と詩だけで十分なところに、舞踏が何をもたらすかが大きな注目点でしたが、一か所、胸を打たれるところがありました。それは先述の「詩はおおきな十字架だ」「そこで詩人は赤い血を流す」という音楽的にも一つのクライマックスをなす中盤のところで、勅使川原はいかにも邪悪な表情で、客席の一人一人を指差したのです。これは私の思い違いかもしれませんが、危険な酒のような月の酩酊へと、赤い血を流す詩の誘惑へと、彼は誘っていたのだと思います。そういうゾクッとさせるものが、この人の踊りにはあるのです。
ルネ・マルタンのル・ク・ド・クール~ホールC
最後はお祭りの締めくくりとしてのオールスター協奏曲の夕べ。ここで私はようやく山田和樹の指揮を聴くことができたのですが、どのくらいリハができたのかはわかりませんが、たった1曲、ハンガリー舞曲だけでも、充分個性が出ていて、面白く聴けました。いやはや、噂どおりたいした実力だと思います。庄司紗矢香と勅使川原三郎のバッハ「シャコンヌ」のコラボレーションは、あたかも苦痛に引き裂かれるような思いが伝わってくるような勅使川原の踊り(と呼ぶべきなのか…)に息を詰めて見つめる時間でした。しかしながら、その踊りは、果たして庄司のバッハにどのような波及を及ぼしたのでしょうか。彼女は何かを感じながら弾いていたに違いありません。バッハは永遠のものであるがゆえに、果たしてダイヤモンドのように硬質なものなのか。否、そうではないと思います。バッハも時代によって、状況によって、環境によって、あたかも生き物のようにそれを感じ、変容していくものだと思います。それが如実に判ったのが、この「シャコンヌ」でした。ただし、庄司さんと勅使川原さんは、一度もお互い視線を交わすことはありませんでした。お互いを、肌と息づかいと、音だけで、感じ取っていたのではないでしょうか。近くでそれを一緒に感じてみたかったものです。
最後に。今年のラ・フォル・ジュルネを開催することは、主催者にとって非常に大きなリスクを抱えるものだったと思います。そのリスクゆえ、開催そのものに反対する考えもあったことでしょう。しかしながら、こういう困難な時期だからこそ、強い意志で開催しようと努力したルネ・マルタンと、それに賛同したアーティストたち、そして関係者には心からの敬意を表したいと思います。私自身、自分でも気付かないうちに震災・津波・原発事故によって、知らず知らずにうちにとても疲れていたのだと改めて気づかされました。しかしこの音楽祭の中に溢れていた音楽によって、どれだけ明るく生きる力を取り戻させてもらい、勇気づけられたかわかりません。