引き続き。
クララ・ジュミ・カン&津田裕也 (6月1日 浜離宮朝日ホール)
仙台国際音楽コンクール優勝者の「その後の成長」を聴く一夜。イザイの無伴奏を弾いているときの劇的な緊迫感と自由な勢いが一番印象的でした。伸び盛りの才能を聴くことは、その人の未来を想像する楽しさがありますね。これは仙台国際コンクール公式サイト上に原稿掲載予定なのでここでの詳述は避けます。
ただひとつ、ロビーにパネルで展示されていた被災地の写真についてだけ触れますと、やはりテレビやインターネットの情報とは全く別の、写真だけが伝えうる被災地の生々しさがあると思いました。日本にやってきた音楽家たちは、不確かな情報にしか触れていないことも多いと思いますし、被災地に実際に足を運ぶのは難しいでしょう。こうした写真は、数字や言葉には置き換えられない現実を伝えてくれます。大きく引き伸ばされて印画紙にプリントされることで説得力もより増してくる。東京の人間だけでなく、海外からやってきたアーティストたちにも、こうした展示をこれからも行って、ぜひ見ていただきたいと思いました。
セヴェトリン・ルセヴ&中川賢一 (6月3日 Hakujuホール)
ブラームスの3曲のヴァイオリン・ソナタの夕べ。ルセヴも仙台国際音楽コンクールの優勝歴のある人。現在はフランス国立放送フィルのコンマス。やはり若い時に思い出のある土地が日本だと、その後の彼らの演奏活動にも、日本がずっと意識されるようになっていくのだと思います。
この日のルセヴの演奏は貫録ある堂々たるもの。ホールによく響きわたる、あまり情に流れすぎない、辛口なブラームスでした。中川さんのピアノを聴いたのは久しぶりですが、さすがに巧い。本当に守備範囲の広い、今の日本の音楽界になくてはならない人になりました。それにしても、今年は本当にブラームスのヴァイオリン・ソナタを随分たくさん聴いている。そして聴くたびに、何て深い、内面のドラマを含んだ、多面的な曲だろうと思う。それはまるで雲の流れのようで、雨が降りそうに厚く低く垂れこめていることもあれば、晴れ間が覗くこともある。その時間的・心理的な経過のドラマまでが、厳格な形式や息の長いメロディの中に織り込まれている。ブラームスが巨匠だと思うのはその点です。
ニコライ・デミジェンコ ピアノ・リサイタル(6月4日 すみだトリフォニーホール)
ニコライ・デミジェンコ 協奏曲(6月5日 すみだトリフォニーホール)
特異な魅力を持ったロシア・ピアニズムの世界を堪能しました。
リサイタルで最も印象に残ったのはシューマンの「謝肉祭」。この曲は実は、比較的ポピュラーな割にはかなりの問題作ではないかと思います。普通に聴いている分には親しみやすいけれど、シューマンならではの謎や隠喩が張り巡らされているし、小さい、断片的な曲のつながりで30分以上のまとまりというのは、ベートーヴェンやシューベルトの時代にはありえなかったことだと思うのです。
この、断片の連なりというのは極めてシューマン的だと思います。そして、その核心部分をなすかもしれないのが、「スフィンクス」というわけのわからない音の並びです。まさに3つのなぞなぞです。
これは楽譜を見るとわかるのですが、「一体これは何だ?」という印象を与えるもので、楽曲として演奏していいものやらわからないほど。ちょっとした軽いシャレ、あるいはアナグラム的注釈とみなして切り捨てて、演奏されないケースがほとんどです。要するに、楽曲ではない、と。
デミジェンコはこの「スフィンクス」を直視し、絶妙な間合いによってつなげられた、めまいのするような音世界を作り出しました。それはいわば、突然挿入された異様な、凍りついたような時間でした。いったいシューマンはどうしてしまったのか?頭でもおかしくなってしまったのか?まさにそういう瞬間でした。すべてがちゅうぶらりんになり、異界への扉が開いたような時…。あれは長く記憶に残ると思います。
デミジェンコはめまぐるしいパッセージをものすごい速さで弾くことができるのですが、そのときの指は、何だか鍵盤に粘りついているようにさえ思えました。音の粒が明るくキラキラ光るのとは正反対で、常にどこか暗くてギラッとした感じ。少し殺気がこもっているほど。後半のリスト「小鳥の説教するアッシジの聖フランチェスコ」も、「ピアノ・ソナタ」も、そう。
それがさらに発揮されたのが、2日目の協奏曲2曲で、前半のショパンの協奏曲第1番も良かったですが、ラフマニノフの協奏曲第2番は特別でした。
デミジェンコのラフマニノフの何が特別だったか。
私が彼のラフマニノフを聴いて連想したのは、人里遠く離れた山の中にひっそりとたたずむ、深くて透明な湖でした。少しも俗っぽくない。デミジェンコのピアノは、決して情に流されるということがなく、暗く輝いていて、冷静で、どことなく冷酷でさえある。第1楽章は特にそうでした。でもそれは非情というのではなく、過去にとてつもない悲しみを背負ってしまったがゆえの暗さではないかと思います。だから、第2楽章、第3楽章の慰めに満ちた明るいメロディが出てくるとき、それが何と暖かく響くことか!この曲は、あまりにも有名な超名曲で、感傷的で俗っぽいイメージがあります。本当はそうではない、といくつかの名録音は教えてくれますが、やはり優れた実演だと体験の質が全然違ってきます。
極端に言うと、私は自分がラフマニノフのピアノ協奏曲第2番という曲を、実はまるでわかっていなかったのではないかと思えたほどです。
いまの被災した日本の置かれた状況は、これ以上ないくらい悲しいものであり、決して晴れることのない厚い雲に覆われたようなものです。解決することなど果たして可能なのかという絶望感にさえ捉われがちです。
この日のラフマニノフは、そこにいっときの優しさをもたらしてくれた。第3楽章のあの偉大なメロディを聴きながら、ラフマニノフの音楽とともに生きる幸せをかみしめずにはいられませんでした。
バラケ・シソコ&ヴァンサン・セガール(6月6日 青山CAY)
西アフリカ・マリの伝統楽器コラを演奏するバラケ・シソコと、フランスのチェリスト、ヴァンサン・セガールの二人によるユニットのライヴに足を運びました。彼らのCDも素晴らしかったのですが、実演はもっとずっと深い音楽体験でした。私がまず感嘆したのは、コラという楽器の美しさでした。見た目は少し荒削りな木の楽器ですが、出てくる音はおそろしく洗練されています。あの音色だけで、マリにどれほど高度な文化があったかを確信させるほどのものです。ヴァンサンが曲紹介のときに、「フランス・バロックの宮廷音楽にリュリがいたのと同じように、マリにはコラの宮廷音楽があった」という言い方をしていたのは素晴らしいと思いました。
単純に言えばアフリカとヨーロッパの音楽が手をつないでいるわけですが、この一見唐突な組み合わせは、「この小さな地球の中で、遠く離れた国はない。すべて隣人だ」というメッセージの隠喩でもあり、むしろ必然的な結びつきだと感じました。
あの不思議な響きを聴いていると、自分の身体の奥深くに眠っていた、ヨーロッパとアフリカのDNAが目覚めて行くかのような、懐かしい、夏の午睡のような感覚に襲われます。遠い過去からのゆるやかな、気持ちの良い風が吹いてくる。自分より何十代も前の先祖はきっとアフリカにいたのではないかとさえ思えたほど。
プランクトン公式サイトより
サックスの清水靖晃さんがゲストで少し出演されたのですが、面白かったのは、アフリカとヨーロッパにアジアが加わった感じに見事になったこと。まさに地球の音楽。それにしてもあれが「一度合わせただけ」とは信じられません。清水さんの五音音階風サックスを聴きながら、コラのバラケ・シソコが実にいい表情で微笑みをたたえながら、弾いていたのも印象的でした。
フランチェスコ・トリスターノ ピアノ・リサイタル(6月7日 Hakuju ホール)
彼は本当に特異な能力を持ったピアニストだと思います。
何が違うのか?
私は、彼の耳、「聴く能力」に特別な感じを受けます。久しぶりに彼のライヴを聴いて、ああそうだったっけ、と思いだしたのはそのことでした。
ピアノという楽器は、いったん鍵盤を押してポンと音が出てしまったら、ヴァイオリンや声のようには、ヴィブラートをかけたりコントロールしたりすることは、原則できません。それはピアノの大きな特徴です。ただ、いったん出してしまった音をコントロールしたいという意識・衝動を強く持っているピアニストの中には、すぐれた個性的なピアニストが多いような気がします。つまり、音の減衰のゆくえに、どれほど関心を払うか。いったんポンと出てしまった音が、どのように宙に消えていくかを、深く感じられるか。
フランチェスコ・トリスターノは、この日も顕著でしたが、解き放たれた音が減衰し消えていくのを見つめ、鋭く耳を澄ませていました。それどころか、これも優れた音楽家の特徴ですが、まだ演奏を始める前から音を聴いている気配もあります。ごくわずかな時間のことですが、そういう演奏家の様子は、私はひどく気になるのです。
フランチェスコ・トリスターノが、ピアノのボディのさまざまな場所を叩いたり、弦をはじいたり、打楽器としてピアノを扱うときのリズムの鋭敏さ、音色の美しさもまた、特別なものです。ピアノのどこをどう叩けば、どんな音がするのか、完全に把握しているんでしょうね。彼の手にかかると、音フェチというか、ノイズに美を感じる感覚が、一緒に研ぎ澄まされていくのを感じます。
ケージ「ある風景の中で」の詩情や、ギボンズの古風だけれどモダンな感じも良かったですが、後半のバッハのパルティータ第6番のプレリュードでの、猛スピードで閃き、またたく間に去っていくフレーズの鮮やかさは特に印象的でした。
つけくわえるなら、彼は同性の私が見ても、ぞくぞくするような色気のある、知的で、静かな男だと思います。あの顔をすごく近づけてまっすぐ話しかけてくるものだから、たいていの女性はクラクラしてしまうんじゃないか。それは音楽にも反映されている。彼がピアノのボディを敏捷に柔らかいリズムで静かに叩くとき、どこか危険で、官能的な何かが生じる。それは、従来のクラシック音楽にはないもの…いや、もしかしたらかつてはあったもの、なのかもしれません。