まず、いま観てきたばかりの「エルナーニ」ですが、これはもうフェルッチョ・フルラネットのシルヴァに尽きます。
私は年輪を重ねた音楽家の芸というものが大好きです。歌手、演奏家、指揮者すべてにおいて、経験を積み、解釈を深め、成熟した音楽家の芸というものを愛します。現在のフルラネットは、その極致に達しています。
若い音楽家の演奏だって、新酒のみずみずしさがあってそれなりに良いのですが、ことバスやバリトンの声ということでは、何十年も歌い続けた歌手のいぶし銀の芸は、舞台の格をぐっと高めます。私はフルラネットの大ファンで、特に「ドン・カルロ」のフィリッポ2世は天下一品なのですが、今回のシルヴァも素晴らしいものでした。ほとんど主役。
フルラネットは単に朗々と恰幅の良い声で歌い上げるだけではなくて、役柄に対する深い解釈が必ずあって、その献身が一層彼の歌を格調高いものにしていると思うのですが、もう一つ今回改めて気がついたことは、役柄と歌の奥底にある「情念」の核を、完全につかみきっているという点です。だから、半端な演出家など跳ね飛ばしてしまうほどの、深い演劇性を秘めた歌をフルラネットは歌うことができる。
今回の舞台、正直、ほとんど演出的なものはありませんでした。美術はイタリア・オペラ特有の遠近法の伝統を生かした奥行きある空間的なもので、演技は歌手にほぼ任されているように思えました。その分、歌と音楽を堪能できる舞台でもありました。
それにしても、「エルナーニ」、2002年のびわ湖ホールの公演に行っていないので、実演のフル上演を観るのは初めてなのですが、何と暗く悲しい、復讐の色に満ちたオペラなんでしょう。けれども、この舞台を観ながら改めて思ったのは、こうしたオペラをヴェルディは「書かずにはいられなかった」のではないか、ということです。
ヴェルディの音楽を特徴づけているのは、徹底した悲観主義と、人間社会に対する辛辣な視線だと思います。一見おめでたいシーンでもそこには必ずどこか皮肉まじりの思いが混ざっています。この「エルナーニ」においてもそれは顕著です。復讐と怒りの念を捨てられぬ人間の業のようなものが、少々荒削りですが、最初から最後まで徹底的に描かれています。ある種冷徹なまでのリアリズムに達した「リゴレット」や「ドン・カルロ」を書くためには、どうしてもヴェルディは「エルナーニ」の憤怒を経由しなければならなかったのだろう、そんな気がします。
その他のキャストについても。急逝したリチートラに代わってエルナーニを歌ったロベルト・アロニカは健闘、そしてエルヴィーラ役のディミトラ・テオドッシュウもレヴェルの高い歌でしたが、ロベルト・フロンターリの国王ドン・カルロは特に聴かせました。
指揮のレナート・パルンボは新国立劇場にも登場していますが、やはりオケや合唱がボローニャだとさらに手腕を発揮。来日するたびに思うのですが、ここのオケと合唱は、実に素晴らしい。歌と呼吸に満ちていて、無駄なフォルテというものが一切ない。すべてにおいて、歌中心の演奏。イタリア・オペラの演奏とはかくあるべしというものを聴かせてくれる人たちです。
さて先週の「清教徒」、これはもう一生の思い出に残るというくらいの感激がありました。いまにしてみると、それぞれの歌手たちは決して完璧な歌ではなかったのですが、そういう減点法的な聴き方を吹き飛ばしてしまうような、熱いものがあの上演にはあったと思います。
正直に書きます。
現在のオペラ界における絶対的なスター、フアン・ディエゴ・フローレスの来日直前のまさかのキャンセル、私も非常に落ち込みました。多くの人がそうだったと思いますが、私もめちゃくちゃ楽しみにしていましたから。上演当日を迎えても、オペラが開幕してしばらくしてからも、「ああフローレスがいてくれたら」という思いを打ち消すことができない自分がいました。
けれども、上演が進むにつれ、不思議な求心力で舞台に引き込まれていきました。その最大の功労者は、オーケストラと合唱団と歌手たちとを、的確なリーダーシップで率いていった指揮者ミケーレ・マリオッティです。
今回の上演で思ったのは、スター歌手も大事だし、主役がきちんと見せ場を作ることも大切だけれど、それと同時に、やはりいざというときは、カンパニーとしてのベルカント・オペラへの深い理解に根差した総合力が大切だということです。
フローレスの代役として難役アルトゥーロを見事に歌い切ったセルソ・アルベロの若々しい勇気と実力には感服させられました。エルヴィーラ役のデジレ・ランカトーレやそのほかの歌手たちも、見せ場をしっかり作ったと思います。
けれども、この日の上演は、個々の実力がしっかり掛け算を作って、何倍もの感銘を与える舞台になっていたと思います。それはやはり指揮者の力が大きかった。
よくベルカント、ベルカントといいますが、このベルカントという言葉ほど、わかったようでわからない言葉もないのではないかと思います。今回の「清教徒」、メインのメロディを歌う歌手だけでなく、合唱もオーケストラも脇の歌手も、すべてが呼吸を合わせて、一緒に歌っていたと思うのです。
そこには、ドイツ的なシンフォニーの世界とは完全に異なる美学の世界がありました。とにかく呼吸がすべて。音の圧力なんかじゃない。そしてピアニシモになればなるほど、情感はいっそう深まっていく。内容のあるピアニシモを聴くことこそ、ベルカントにおいては重要だということを、この日の上演は教えてくれたと思います。
私はボローニャ歌劇場のアンサンブルから、作曲家が意匠をこらして作り上げ、精緻を極めた、総合的な歌の格調というものを聴かせてもらいました。ひとりの歌手だけでは駄目なのです。さまざまな要素が合わさって総合されるような歌。それこそが「清教徒」というオペラにおいてベッリーニが成し遂げたことの偉大さだったのかもしれません。そこからは、極上のワインだけが放つことのできる高貴な芳香のようなものさえ漂っていました。
もうひとつは、「清教徒」というオペラのドラマの素晴らしさです。さまざまな背景はあるものの、話の基本構造としては、まず愛の喜びがあり、次に愛の喪失がある。そして愛の復活が訪れる、というものです。そこにベッリーニは神秘的な音楽の奥義を用いて、多くの人が涙せずにはいられないリアリティと感激をもたらすことに成功した。
誰しもが経験あるはずです(あるいはこれから経験するはずです)。そして今の日本が経験していることでもあります。ヒロインのエルヴィーラは、かつて無邪気に信じ切っていた「約束された幸福」というものを、突然、理由もわからないまま、断ち切られてしまう。まるで、刈り取られてしまった花のように。
そして、第3幕でひたひた、じわじわと観客の心を金縛りにする魔法のような愛の復活の最終段階において、あのテノールのハイFが炸裂するわけですが、あれはただの歌唱技巧的な成功のみにとどまらない、何か生きていくこと、愛することのかけがえのなさの原点へと人を覚醒させるような意味があると思います。
これほどの次元でのベッリーニ体験をさせてくれたボローニャ歌劇場には感謝の言葉もありません。放射能への懸念もあったことでしょうし、スター歌手の続けざまのキャンセルという危機もありましたが、よくぞ難局をのりこえたと思います。学ばせられることの多い今回の来日公演でした。