88歳という年齢を全く感じさせない、何という颯爽とした演奏!
通常、老齢の指揮者というと、肉体の衰えにつれてテンポも遅くなり、いかにも巨匠然とした音楽になるというイメージがあるのですが、スクロヴァチェフスキはそうした、いかにも「老成」した音楽とはおそらく一生、無縁の人でしょう。何か、常に挑戦している感じがある。そこが素晴らしい。
初日の1曲目モーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」は風のような演奏。その疾風が、ときにフッと止まる。そしてまた風が吹き始める。その緩急のコントロールが絶妙。
ブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」は、冒頭ホルンの明るく朗々とした響きから、曲の隅々まで見渡せ、あいまいなところが全くない音楽。特に金管同士のリズムのずれの妙味を立体的に浮き出させる手法は見事でした。そこには、まったく聴き馴染みのないダイナミクスや緩急があり、非常に新鮮な思いで聴くことができました。
スクロヴァチェフスキは作曲家でもあるのですが、おそらく彼は、作曲家の視点を強く持って、ブルックナーの交響曲を再作曲するくらいの態度で、臨んでいるのではないか。そこには明らかに、足し算の美学があると思います。たとえば、第4楽章のコーダのところで、2度ほど隠し味的にシンバルを鳴らした。そんなことはおそらく楽譜には書いてないはずだし、前例も私の知る限りないはずです(もし「ロマンティック」の第4楽章コーダでシンバルを小さく鳴らしている演奏があれば知りたいです)。版の問題がどうこういう以前に、スクロヴァチェフスキは「足した」のです。
何と大胆な足し方であったことか!
聞くところによれば、スクロヴァチェフスキは、同じ曲でも演奏するたびに、かなり違うことをするとも伝えられています。常に同じ解釈、同じ決定版、というふうにやるのではなく、毎回変えるとすれば、それは演奏行為として非常に興味深いことです。
そもそも楽譜とは聖典のように忠実にまもるべきものなのでしょうか。それとも楽譜とて表面的な現象にすぎず、書かれていないことを読むべきものなのでしょうか。あるいはスクロヴァチェフスキのように、毎回違う読み方をして、ときには書かれていないことを加えることも辞さぬ態度で臨むべきなのでしょうか。
ただ、スクロヴァチェフスキの「ロマンティック」、見慣れぬ風景が続出するブルックナーであったものの、聴いていて自分でも不思議に思うくらい、違和感もなく、すべてに納得できる、実に雄弁な演奏であったことは確かです。最後のコーダでも、「円環が閉じた」「戻るべきここに戻ってきた」という強烈な感覚に襲われました。それこそまぎれもないブルックナーです。
2日目。
シューマン「第4」は、非常に力強く情熱的で彫りの深い演奏。目の覚めるような弦の表情、音色の濃さには抗いがたい魅力がありました。それも、単に熱い、力強い、というだけではなく、引くときは意外なまでにサッと引く、冷徹なコントロールがあり、実に面白く聴くことができました。
この交響曲は、冒頭の和音の鳴らし方にある程度、その指揮者のシューマン観が出ると思っています。カラヤンとフルトヴェングラーでは別の曲かと思うほどの違いがあります。シューマンは狂気の人なのか、夢想の詩人なのか、闘う人なのか…。スクロヴァチェフスキは、この曲の出だしを、断固として素早く鳴らしました。そこには、前日の「ロマンティック」と同じように、曖昧模糊とした神秘性などではない、明快で知的な、意志の力を感じさせるものがありました。
そう、スクロヴァチェフスキは、意志の人だと思います。
後半メインのブルックナー「第9」も、徹頭徹尾、意志的で明快な演奏でした。不可知な神秘性ではなく、強い意志をもった人間の営みとして、私はこのブルックナーに心から共感しました。
ブルックナーの場合、クライマックスで金管群が咆哮するとき、そこには教会のオルガンのような響きの層が出現するわけですが、そこにスクロヴァチェフスキは、全く違うものを見出しているように感じました。つまり、金管群の各パートに隠されたリズムのずれや音色の綾を見出し、立体的な透視図のように、明快に具現するのです。そこには、こんなに強烈だったかと思うほどの斬新な不協和音さえありました。
弦楽器群のアンサンブルも、猛然と情熱的に弾くのですが、そこにはあたかも彫刻のように画然とバランスの意図が浸透しており、パートごとにサッと引く瞬間があったりする。ただ全員が一生懸命弾くというのとは根本的に違う。精神論でただただ演奏しているのではなく、常に戦略のある知的な演奏。だから、どの瞬間も発見に満ちていて、一瞬たりとも油断できません。
そこで感じられるのは、ブルックナーという一人の人間の「営み」であり「意志」です。
この「第9」は、ブルックナーの全交響曲のなかでも、特殊な地位にある曲です。「第8」が荘厳な死の音楽であるならば、「第9」は彼岸の音楽です。あの世に半分足を踏み込んでしまっている。天国の入口と、地獄の入口が、両方見える曲です。
その「第9」を、スクロヴァチェフスキは、渾身の力で、自分の全存在をなげうつような覚悟で指揮していました。彼の唸り声が私のいる2階席にまで聞こえたほど。たとえば第3楽章、引き裂かれるような悲嘆の呼吸が波打つなか、圧倒的な光の柱が表れるあの瞬間。あれは、神の顕現、という風なイメージなのですが、そこにもスクロヴァチェフスキは断固とした意志の音楽を鳴り響かせていました。あたかも、どんな苦痛も絶望も恐怖も、そこからあなたを救い出すことができるのは、自ら生きようとする力なのだ、とでもいうように。
第3楽章コーダで、通常、静かに弦が退いていくところで、ホルンが調和して全曲は終止します。ここは消え入るように終わる場合がほとんどだと思います。ところがスクロヴァチェフスキは、この最後の最後のところで出てくるホルン(8人)を、あたかも春の日の出の光のように朗々と響かせました。それまでの闇が暗かっただけに、その音の何とまぶしく暖かかったことか!
ブルックナー「第9」の最後に、これほど希望の光を強く感じたのは初めてでした。この曲は滅びの曲でも別れの曲でも何でもない。確かに想像を絶する絶望と悲劇はあるが、次に訪れる輝かしい光を予兆して終わる曲だったのです!
「ここに希望があるじゃないか」というスクロヴァチェフスキの心からの声が聞こえたような気さえしました。それは、いまの日本に生きる私たちに向けたメッセージでもあったのかもしれません。