雪の写真が撮れるかなと思って表に出てみると、降っているのは冷たいみぞれまじりの雨ばかり。
溶けかけた雪のかけらだけでも、と沼地に足を運んでみた。
劇場の暖かい空気、華やかな人々のなかを歩きまわるのもいいけれど、こういう場所に一人でいると、自分に還ったという感がある。寂しい場所だけどいちばん落ち着く。
この沼にはアオサギがよく飛来する。大柄で優雅な姿の鳥なのでぜひ近くで見たいと思うのだが、警戒心が強く、なかなか近づけない。この写真を撮っていたときも、アオサギはあまりに遠くにいた。望遠レンズでも使わない限り撮れそうにないが、目視だとけっこうその姿は楽しめた。
17日火曜日は、東京オペラシティに「サルヴァトーレ・シャリーノの音楽」を聴きに行った。未知の作品に実演で接するのは大好きだ。しかもシャリーノは昔から興味を持っていたし、作曲家自身も臨席してのコンサートは意味が大きい。
この日演奏されたシャリーノの4つの作品を聴いて思ったのは、彼の音楽とは、ある種の美学のもと特殊に構成された時間と空間を聴衆に体験させるものなのだ、ということだ。
それはどんな音楽だってそうなのだけれど、シャリーノという作曲家のフィルターを通して仕組まれた音世界は、私たちが現実生活のなかで、なんとなく過ごしている時間・空間を、何か根本から変質させてしまうようなラディカルな力を持っていると思う。
たとえばシャリーノの音楽に出てくるものは――
途切れ途切れの夢うつつの幻影。
中世の絵に描かれているような地獄の入り口。
谷底からごうごうと轟く風音と鳥の声。
生物が滅亡した未来から考古学的に見た現代の電話の記憶。
海の波と泡の音が織り成す空気の揺らぎ。
都会の高層ビルに突如降り出した無数の雨粒の音。
そういう奇妙な幻想の時間と空間を、精緻な虚構として作り上げるのがシャリーノの音楽だ。たとえば100本のフルートと100本のサクソフォンを用いる等といった楽器編成は、あくまでそのための一手段に過ぎない。それにしても想像もつかぬ音の生み出し方だった。彼がヴィジュアル・アートの才能の持ち主でもあるというのは、とても納得がいく。
もっとも鋭敏な音楽は、聴き手に新しい感覚の次元を切り拓く。
現実の見え方、時間の感じ方さえ、変わってしまいそうな不思議な音響体験。
それが音楽家の手によって構成されることの面白さ。
いいコンサートだった。
骨身に鋭角的に突き刺すような寒さが北風に運ばれている今夜です。今日の御写真は冬枯れの景色。侘しい寂寥感に満たされた光景は、春を一歩一歩近づける前触れでもありますね。もし、この孤独な風景が無いとしたら、春の訪れに歓喜する心が減殺されることでしょう。開放された百花繚乱を堪能するためには、冬枯れに己の孤独を深め、磨き込むことが必要ではないでしょうか。
己を知るためには、己を映す他者が求められます。右手で右手を掴むことは不可能ですから。この冬枯れの景色は、己の内面に己の視線を向けさせる“鏡”かもしれません。先日の玉藻池の水面のように。
林田さん、厳しい冬の寒さを「春の使者」として温かく迎えましょう。風邪には十分留意しつつ。百拝傾首
投稿情報: leonardo21th | 2012年1 月20日 (金) 22:00
サルヴァトーレ・シャリーノのことは、全く知らないのですが(すみません)、
林田さんの文章がとても気になっています。
これは音楽のこと?それとも林田さんの心に浮かんだ幻影のこと?
列挙されたさまざまな情景の断片、奇妙な幻想の空間と時間、精緻な虚構、なんだかとても心ひかれてしまいます。夢想してしまいます。。。
ブログコメントですから、長くならないうちに、このくらいでやめておきますね。。
投稿情報: えんどう | 2012年1 月21日 (土) 22:38