私は一日に何度も空を見上げる方である。
都心にいても、ビルの谷間から何とかして空を見たくなる。
空が青ければ、その青みを目で楽しもうとするし、雲が出ていれば、雲の形を愛で、動きを目で追いたくなる。
厚い雲に覆われていればその暗さを味わいたくなるし、夕焼けなら、黄色から橙色、赤銅色から暗褐色への変化を未練がましく見つめたくなる。
なぜ空をこんなに見上げたくなるのか。
人間界の煩雑な事柄から一瞬だけでも解放されて、ホッとしたいからからもしれない。
空や雲は子供のころから変わらない。そういえば、子供のころは校庭で野球をしていても、つい空を眺めてしまっていたっけ。のんびりした子供だったのだろう。それはいまの自分もあまり変わらないかもしれない。
1月10日はオペラシティにイアン・ボストリッジのシューベルト歌曲の夕べを聴きに行った。今年最初に足を運んだコンサートである。彼の歌唱を生で聴くのは久しぶりだが、覚えているのと体験するのとでは段違いに違う。
やはりとてつもない歌手である。
ボストリッジのステージ上でのふるまいは、おそろしく自由に見える。技術的にも内容的にも、あらゆる準備が完全に整えられた上での、詩と音楽に対する自在な態度。いかようにも動けるし、次にどう動くかわからない。あの感じはクラシック歌手のかしこまった定型的なステージマナーとは完全に異質なものである。
ボストリッジが、あの灰色の瞳で観客一人一人を見つめまわしながら歌うとき、そこには虚無の雰囲気が漂う。柔らかく軽い声質だが、秘めた芯は強い。傷つきやすい青年が身にまといがちな、冷たい硬質さが彼の音楽にはある。
その内部にあるのは、うつろな喪失感であり、唇をかみしめるような自己否定への衝動であり、愛のかけらへのいらだたしい回顧である。
「白鳥の歌」の曲順はボストリッジの意図によって通例とは大きく変わったものとなっていたが、この連なりから生まれてきたものは、おそろしく暗くリアルな、狂気と紙一重の、一人の男の内面の闇の物語であった。最愛の人を失った「都市」の死のような幻影の音楽は、津波の被害を受けた東北の町々をさえ想起させたのは偶然だろうか。
それにしても、シューベルトの歌曲の詞を熟読すると、改めて、なんと「空」「星」「月」「太陽」「小川」「海」「水」の多いことかと思う。そういったものなしにシューベルトの音楽は決して成立しないだろう。
淡青色の空、流れ行く雲……我々はどうしても下を向いて歩きがちになりますけれども、時には林田さんのように上を向いて歩きたいですね。坂本九の歌を口ずさみながら、とまでは行かないにしても。雲の形が無限に変化していくのが何とも魅力的だと思いませんか?
私は顎を上げて踏ん反り返るようにして歩くのには、どうしても抵抗感が有りますから、やや俯き加減に歩いてしまいます。それでも、これからは首の運動も兼ねて、努めて青空&星空を眺めるようにしましょう。私はどちらかと言うと、夜空を見上げる時が多いですね。瞬く星を眺めながら時には「第九」の合唱を心の中で口ずさんだりしています。
私の住まいの近くを玉川上水が流れていますが、その流れの音を耳にするたびに思い出すのはシューベルトのピアノ五重奏曲「ます」第四楽章です。子供の時から私の心に流れているクラシックの一つです。林田さんが御指摘の通り、シューベルトの歌曲には空、月、星、水etc自然の姿が多いですね。作曲家をはじめ芸術家は、自然の言葉を人間の言葉に翻訳して聴く能力に恵まれているように思えます。
それにしてもLINDEN日記は読んでいて、芸術性の香りが高いので癒し効果が有ります。これからもマイペースで個性的な便りを発信して下さい。期待しています。それでは今回はここいら辺で失礼します。 百拝傾首
投稿情報: leonardo21th | 2012年1 月13日 (金) 23:24
空がキレイ。
投稿情報: 日永由紀子 | 2012年1 月15日 (日) 16:12